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2020-11-12

孫の通う高校でコロナ感染で一斉下校。

 先週高校生の孫が倦怠感と微熱で学校を休んだ。

心配していたが回復して学校にも行ってるというので

安心していたが

学校自体がコロナ感染で一斉下校なのだそうな。

こうなると数日前の微熱はコロナの感染が疑われる。

良いように解釈すれば

孫は感染したがカラダの免疫力で解放されたとしたいところだけど

そうはいかない。

数日様子を見る必要もあれば

東京都立の高校なので東京都の発表も注目される。

クラスターでないことを祈る。

もし孫がすでに感染していれば

母親への感染も疑われ

頻繁にきてくれてる娘への感染も疑われ

それはすなわち私への感染の可能性でもある。

東京都の感染者が急激に増えてることもあるので

一騒動ありそうだ。

2020-11-03

透析17年。

 




あっという間に

11月に入ってしまった。

情報番組ではコロナで閑散とした酉の市を伝えている。


小生はと言えば

相変わらず足の潰瘍と

ハガレかけてる足の爪に悩まされてる。


前月10月で

透析が17年になる。

恒例の記念カードを作った。

前月は神無月らしく月に恵まれた。

公園のベンチの背にもたれて

スマホを固定して「中秋の名月」。

中秋の名月と言えば

10年近く前に登坂した富士山。

息も絶え絶え本八合目まで登ったら

目の前の雲海に背になる富士山が夕日に照らされて影がくっきり。

さらに目をやると「中秋の名月」

富士山の頂上は踏破できなかったが

この「影富士」には感動した。

2020-08-22

いとも簡単に熱中症になる

 もともと

透析後は体内から引いた水分が

およそ4kg。

私の場合5時間をかけて4キロの水分を透析機によって引いている。

一般的にいえば

脱水状態で血圧も下がりやすい。

実際真夏の8月のある日

透析が終わり病院から100mくらいのコンビニに行って帰ろうとして

気絶して後ろに転倒した。

幸い背中にザックを背負っていたので

後頭部を地面にたたきつけるようなことにはならなかったが

頭を打てば一大事だった。

命にも関わっていた。

原因は透析後の血圧の不安定さであり

エアコンの効いた透析センターから真夏の暑さの外の

急な変化に身体がついて行けなかったからだ。


きのうはそれに近い条件で一時的な熱中症になったといってよい。

いつものように透析センターの病院の外に出て

移動のためのムーバス停留所でバスを待つ。

停留所のバス停のベンチは日影でなく直射日光を浴びていたが

あえて座ってしまった。

10分とない短い時間と思ってのこと。

すぐ?バスは来た。

乗り込むと7〜8分で目的の駅に到着。

バス停から昼ご飯を食べる食堂まで歩く。

だが暑い。

いや暑いからと言って汗が出るわけではない。

カラダがエアコンの環境に慣れきっていて

汗を出すことは忘れてしまっている。

食堂はコロナ感染防止なのか

空調は全開だ。

エアコンが効きすぎて寒いほど。

近くのスーパーで簡単な買い物をして

すぐにタクシーに乗る。


ところがそのタクシーはタクシー乗り場に客待ちで停車しているときから

ドアは全開で乗ってからもエアコンを効かせてるふうではない。

汗をかかない毎日でたまには汗でもかこうと

運転手にエアコンについてクレームをいうでもなく乗ってると

段々苦痛にもなってきた。

それでも自宅マンションについたので

料金を支払ってエントランスへ。

暑さを一際感じながら部屋に入ると真っ先にエアコンのリモコンにスイッチを入れる。

とにかく凍った氷を舐める。

透析患者は水を飲まないようにして

氷を舐めることが多い。

そして

いつものように訪問看護師が診療に来る。

検温がある。

37度8分。

誰もがコロナ感染をまず疑う。

もちろん体温計の問題と言うこともある。

特別カラダが暑いと言うこともないと看護師。

カラダを冷やす手立てはあるかと確認したが

そのまま帰った。

よくよく今日の状況を思いだして

これは熱中症の第一歩かもしれないと

とにかくエアコンを効かせ部屋の温度を下げ

脇の下と頸椎の後ろを

濡れたタオルで冷やした。

1時間くらい

それをくり返した。

やっと

36度9分までさがった。

「とりあえず冷やそう」

長女にいちおうLINEで知らせていた。

下がった体温に

「もう一息」

それを聞いて素直に冷たいタオルをくり返した。

そして2時間後には無事

36度6分まで戻り

一件落着と言うことになった。


わずか30分か1時間のことだけど

しかも透析後という特別な条件だったが

簡単に熱中症になる危険を感じた。



2020-08-14

山のなかま

きのうは山に一緒に登ってきた仲間と久しぶりに会った。

駅近くのオシャレなレストランを予定していたのに
とても駅までも歩けないと
行くまでもなく弱音をはいて
欠席することにしていたら
マンションまで来てくれた仲間が
駅でなくとも途中でいいから行こうと
半ば強引に引っ張り出した。
外は猛暑で
心臓にも悪いし
足先の潰瘍も完治してないし、、
とやめる口実だけが先立ってるのを
仲間は見透かしてるように
なんだかんだと言いながら
誘い出しに成功。
歩き始めれば出来ること。
弱音だけといえば弱音だけが
躊躇させていたがあるいてみれば
それほどのことでもないように思えてきた。

結局  駅のレストランを諦め
途中の中華料理店で
食事をすることになった。
小さな出版社の社長と山行倶楽部の主宰が
様子をみにきてくれたのだった。
ちょうど来てくれていた長女も合流して
餃子とビールを注文しての
とりとめもない近況報告だが
私の体調を気遣ってきてくれるのは嬉しい。

駅まで歩くのは無理としても
その半ばまでを歩いたのも
その筋力のおちぶれを改めて自覚できたのも良かった。
いつも病院へタクシーで往復で
歩数150余が200歩。
なんとも情けない筋力を自覚する。
改めて
とにかく一番にケーブルカーで高尾山を次に自分の脚でを目標に!
と念じるのだ。




2020-08-10

山の日

山の日

最近休日といってもほぼ実感がない。
実感と言えば
一日おきに行く病院が
休日だとアナトリウムというラウンジが閉鎖されていて
ただでさえコロナ対策で入室時間が小刻みに決められていて
時間調整が面倒くさいのに
居場所がないので
閉鎖されていて今日は休日だとわかる。
娘にLINEで聞くしかない。
「今日は山の日」

きのう山登りの主宰者に用件があって電話して
あしたお時間ありますか」と聞くと
明日はちょっと「山に行くので…」という。
何処を登るのですか?に
「本仁田山へ」

こんなにカラダが衰えて山登りなどテーマにのぼりようがない。
だが悔しかった。
本仁田山などは何度も行ってるので
その様子が目に浮かぶのだ。
低山で気持ちよい山だ。

つい最近知人に
1年計画で高尾山を自力で登る決意を話したところだったこともあって
気持ちの上では焦るのもあって
改めて1年を目標にしようと思うのだ。





2020-08-05

コロナ感染者?

透析センターには個室が併設されてる。
小生も入院中は何度か使ったことがあるが
今日はビニールで囲ってある。
一時5月頃も張ってあったが
それ以降は見てない。
それが今日は天井から出入り口を囲む形で
ビニールが下がって囲ってある。
以前聞いたときは
窓を開けて換気するという段取りらしかった。

今朝はいつものように
検温はあったが
きのうの体調は大丈夫でしたか?と聞かれた。
ほかの患者の中には
それを聞いてすぐ
「何かあったの?」とすぐさま聞いてくる。

なんとなく看護師も技師も空気が違う。
わかるものなんだな。
一本緊張感があるのだ。

まあこちらはマスクだけがたよりでいつものようにしているしかない。

2020-07-28

「いい状態ですね」

きのうは
循環器科の診察だった。
予め心電図の検査を受けていたので
循環器科の診察室に行くと
心電図を見ながら元々不整脈はあるものの
特別問題はないという診断だった。
他に何かありますかというのに待ってましたとばかり
「足の状態を透析センターの看護師が撮ってカルテにアップしてるので診ていただきたいのですが」

意外にもすぐ出たコメントが
「良い状態」だというのだ。
昨日このブログに載せたように誰が見ても
決して美しいものとはいえないが
「良い状態」というコメントも意外だ。
循環器科の主治医は
透析の主治医とは違って
勧められていた心臓の大動脈弁置換のカテーテル手術に対しても
丁寧にそのリスクを説明してくれ
その説明を聞いて断念する道を選んだ経緯があって。
今日に至ってる。
その循環器科の部長が
以前にも
歩いて血流が良くならないと
足は良くならないの一言で
それ以来自然治癒
という血流を良くすることに努めてきた。
肝心の指が痛いので歩けないが
歩かなくても血流を良くすることはできるだろうと
マッサージをしたり整体的な加療をしたり
足踏み竹がいいと思ったが断捨離で捨てられたので
キッチンにあったパンの小麦粉を伸ばす綿棒を土踏まずで転がしたりしてきた。
その効果の具合の程度は度外視しても
とにかく主治医や看護師たちがヒステリックに他の診察や処置・検査を勧めても
かたくなに自然治癒に期待してきたものにとっては「勝利」と言ってもいいほどうれしいものだ。
看護師も主治医も「ガイドライン」や経験に依拠してる。
あるときは若い主治医は
私に言っても受け付けなかったので
突然
長女にまで電話して
まくし立て
造影剤のカテーテル検査や
他の病院である杏林病院のフットケア科受診を勧めた。

小生は闇雲に拒否してるわけでもなく
私なりに注意深く観察したうえの実際の実感での判断、つまりは直感に近いといえば近いのだが
それはそれでけっこう的を得てると自負してる。

循環器の部長の診察で何よりも
今まで「血豆」とか「魚の目」としか表現できなかったのが
「潰瘍」という表現があるということが
収穫だった。

さて「潰瘍」は心配することなく
歩いて歩いて
リハビリにむかうことしかない。

一年後には高尾山くらいを自分の脚で登りたいものだ。


2020-07-27

「壊死する可能性の後遺症」

TBSテレビの「報道特集」でコロンビア大学のコロナに感染して
厳しい闘病生活を経て無事退院した加藤医師を取材してた。
そのきびしい後遺症を伝えていたなかで
血圧がふつうの半分くらいになり生死ををさまよい

後遺症として「足の指も壊死する可能性もある」
強い血圧のクスリも投与したという。
実際使用されたクスリが同じものかはわからないが
おそらく同じく私に投与された昇圧剤の「デボポン」だろう。
そして
加藤医師の詳しい後遺症の症状は伝えなかったが
「壊死」する可能性があったというのには驚きもした。
壊死はしなかったが
血豆のような異常な塊にこの3ヶ月間悩まされている。

一方で透析の主治医も看護師も
石灰化による動脈閉塞」を疑い
造影剤によるカテーテル検査をしろとかMRI検査を受けろとか
皮膚科に行くようにとか
いろいろなことを言われたが
実感としてそういうことではないだろうと
断固拒否をしてきたが
あるとき
循環器科の主治医に相談したとき
「歩いて血管が発達しなければ良くならない」のひとことに
なるほどと納得。

水を得た魚のごとく
看護師や主治医の毎回のように言われる「雑音」も無視し
自然治癒に任せると主張してきた結果
完全には完治はまだしてないが
痛くて歩けなかったのが
歩けるようになってきた。
看護師にも「負けた」といわせるほど良い方向にきてる。

あまり見にくい写真を掲載したくないが
小さいサイズで少しだけ。。


それにしても「壊死する可能性」が歩けるようになったのは嬉しい。


補足

4月2日に退院することができた。延べにすると15日間の入院。

2月の18日に最初の入院。それは数日後の21日に退院できた。
24日に再入院で救急の集中治療室のようなHUに入れられた。
病名は「うっ血性心不全」というもので「慢性心不全」のひとつの病態。
苦しくて病院に駆けつけ
レントゲンで肺炎の症状で肺は白い影があり肺炎。
最高血圧は50を下り酸素指数も低く命が危ない状況だと救命医から告げられ
今コロナ肺炎で話題になってる人工呼吸器を取り付けられた。
この人工呼吸器はくせもので強制換気で肺に酸素を送るもので
私の要領が悪いのかも知れないが
逆にとても苦しく、しかも喉が渇き
もう耐えられなく取り外すようにねがい出た。

救命医は血圧が低く命の保証もできない死んでもいいのですかと言ってきた。
「あとはモルヒネしかない」というような
体の悪い救命医でしたが
死ぬのにこんな苦しむのは嫌だと判断し
死んでもいいから外すようにねがいでた。
死ぬ土俵際だからこそいろいろ考えた。
駆けつけてくれた長女も「我慢しなきゃ駄目でしょ!!」と叫びました。
しかし最後は延命措置はしないという家族と病院との事前の合意を理由に強制換気の人工呼吸器を普通の鼻からの酸素マスクに変えさせ納得させ
最後に薬物などによる死への緩和治療をするにしても私本人の意思によることを家族と医師が合意し結果を見るまでもなく駆けつけてくれていた長女もハノイにいる長男とも相談しながら帰宅しました。

気がつくと救急病棟のベッドに寝かされていました。
今回の入院で驚いたのは
現代医学は遙かに進んでいて
今回私の命を救ってくれたのは
心臓の働きを上げるという名称は果物の実のような「デボポン」という薬の点滴でした。
昇圧剤というのか1時間にわずか0,1〜0,3mgという遅いスピードで
約10日間投与されたと思います。
血圧が上がってくると
デボポンを休止、休止するとまた下がる。
下がると点滴をする。
あるいはいくつかのほかの経口薬を試したり
点滴も左右の腕のあちこちに刺され
血管も石灰化で硬くなっていて
漏れたりで
悲惨な腕に変わりましたが
やっと10日目で血圧も安定し
晴れて退院となり
いまは最高血圧100を維持できるようになった。

考えてみれば50しかなかった血圧が倍の100です。
現代医学に後ろ向きだった私でも
認めざるを得ないところ。

とはいえ20日間ベッド生活で
しかも血圧低下での転倒をおそれ
歩行禁止とされていたため
脚の筋肉もげっそり落ちて
歩くことさえままにならない。
当初透析つきの入院施設への転院を勧められもしたが
断固帰宅を希望し自宅からの透析センターへの通院を希望した。
心配した主治医とスタッフは
透析から帰ると自宅に訪問看護師が待機
血圧などを計るなどをする態勢を作ってくれた。

長女は訪問医師や看護師が入れるようにと
短い準備時間にもかかわらず狭い部屋を
便利屋も使い整理してくれた。
いまや理想的な環境での退院後。
ただ落ちた筋肉には違いなく
ましてや「慢性心不全」に変わりなく
いつ命を落とすかわからない難儀な生活をゆっくり過ごすほかないと覚悟。
ひとつ余談ですが
とき折しも救急病棟での連日の点滴最中に、コロナ騒動で面会禁止のなかにもかかわらず、お世話になってる整体師が10年ほど生き別れだった21歳になる実娘から整体師(実娘の叔母)宛のスマホのコメントをわざわざプリントアウトしてナースステーションに届けてくれた。実娘は衰弱しつつある父親に今すぐ会う勇気はないとしながらも、その整体師のスマホに「我が儘なお願いですがお父さんに会って話すことがあれば、わたしがいま写真を撮ってることを伝えてくれると嬉しいです」
送ってくれた。その実娘による撮影の壮大な富士山の写真も添付されていた。
生死の境目まで行って救急病棟で連日の点滴で繋がれたままの私にとっての至極の言葉。
いまや孫は孫で高校に写真部を作ろうとしたり
実Mは写真を志向して祖母からプレゼントされた重い望遠レンズを担いで歩いているよう。
弱音を吐いてウッカリ死ねない。
三者での連続個展などの構想さえ浮かぶ。






2020-07-20

ブログ再開します。

ブログ再開します。

久しくこのサイトでのブログを休止してきましたが
再開することにしました。
随分長い間転居していましたが
こちらはふたたび日々の『充電』生活に関わることを中心に
転居先はまったくイメージの世界だけとしましました。
まあまたどれだけ続くかわかりませんが
気が向いたらのぞいてみてください。

旧移転先

【回顧する写真】

2020-01-07

「他の病院へ行きますか」

この今日の投稿は
ブログ移転した先に掲載したもので
現在は掲載されていませんが
どうしても再録していきたいので再録します。



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2020−1−7

今日から正月シフトも終わり
通常モードで
ある程度リラックスとおもいきや
先月主治医に
例の私に「余命2年宣言」を言い渡した本人だが
薬の処方について
お願いしたことについて蒸し返すように
できないモード。
色々話していく内に
すでに2年余命を言い渡されているのもあり
薬を処方されたからといって
延命するわけでもなくという開き直りの気持ちも段々増し
薬はもいいよ。
と拒否の意を表したら
なんと
副院長という立場を疑うような
「他の施設に行きますか」

誰でもわかるでしょうが
いうことを聞かなければ
「他の病院に行ってもらいます。」

耳を疑いました。
というより
どういう事情が背後にあるのかわかりませんが
薬品会社と病院の癒着のことは誰もが周知のごとく
そんな査察もあるのかもしれない。
そんなことはいつ死ぬかわからない人間にはどうでもいいこと。
とにかく薬の処方が変更されて
負担だといっただけで
他の病院へ行ってくださいとは
それ以前の話でしょう。

それを是正しようといろいろ施策は考えられているのでしょうが
薬品会社の営業力はまんまとそんな施策を打ち崩している。
施策は表面上の繕いで
なにも変わってないのでしょう。
にもかかわらず
患者に負担をかけてそれを解決しようとする。
病院の副院長の発言とは到底思えません。
こちらは生きるか死ぬかという狭間をかろうじて生き延びてるわけで
ここで激論するのも命を縮めるだけで
そういう話を続けることはとりあえずはやめました。