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2015-04-26

いまごろリハビリの重要性を再認識

骨折した左足の痛みは基本的にはとれた。
しかしそれだからこそなのか
あるいは4月はじめの頃重い機材を持って
新宿に出かけたのがいけなかったのか
反対側の右の腰が痛いのが続く。

これを左足を使うようになったから
その重心移動で痛むのか
左足をかばう右足への重心に堪えられなく
その腰が痛むのか
どちらか定かではない。

先日高尾山を往復リフトを使って登ったが
それ以前からなので
治るものが治らないというのはあるかも知れないが
高尾山が原因としては考えにくい。

そこでふと
病院で受けていたリハビリで指導されていたことをやってみた。
リハビリ科は月に1度くらいは
受診していたが
ほとんどこういうリハビリの訓練をやってくださいと
毎回2,3のパターンをいわれてきたが
だいたい数日で続かない。

ただそれをやるときは
左足の筋肉が極端に落ちてることを
痛感することになってはいた。

そこでいま
改めてやってみると
すべて右の腰に通じて痛む。
そうだ。
やはり左足の筋肉と連動している。
と再認識させられる。

無理をしたかどうかは別として
少なくとも左足をかばって
右に重心が移動しているのは確かで
バスルームの鏡で腰の辺りを見ると
向かって右に腰が歪んでいる。
鏡は不思議な物で
自分はまっすぐの姿勢で生活している
あるいはその場に立ってると思い込んでいるが
鏡はそれを裏切り
一瞬にしてしかも大きく歪んでることを見せつける。

リハビリの指導の中に
椅子に座って片足で立ち上がるというのがある。
これが健常な右足ではできるが
左足ではできないのだ。
立った姿勢からゆっくり座るのも
右足ではできるが骨折した左足ではできない。

もしこれをみてやってみるという人は
やってみると自分の脚力がわかるけど
転倒しないようにはじめは
テーブルなどを支えにしていただきたい。

これをやってると重心に対する意識が集中し
腰の痛みが変わるような気がする。
この指導はもう二ヶ月まえからいわれているが
その頃はまだ痛みがあってそれどころでなかった
というのもあったが
いまになってありがたい指摘だと
痛感している。

ほかにも片足ずつ踵を浮かすというリハビリも
左足は足の甲に負担を感じる。
これも歩くのに必要な筋肉のようで
続けることが必要なんだろう。

いまごろになって
リハビリをはじめるのもなんだが
これをやらないとどんどん腰痛は酷くなり
右に傾いた姿勢は固定化され
一生腰痛モチになることは目に見えている。

日常生活を漫然としていると
無意識に右に重心がかかっている。
意識すれば
たとえば歩くときは左足で歩く意識を持つとか
はできればいいがなかなかそんなに持続できるものでもない。
なので集中的に日課的にリハビリをすることに励む。



青空にハナミズキ


2015-04-17

A大学に行けず

facebookで フォローリクエストが来たので
そのフォロアーのプロフィールをみると
同郷でしかもわが輩が受験して合格したけれど
行かせてもらえなかった大学出身だった。
それで40年以上昔の20歳を
いろいろ思い出してしまった。

というか
日頃から意識無意識の中にそのことはある。
ただ過去のこととしての思いではなく
いまの生活が少し異なることになっていたかもしれない
という思いなのである。
それは性格的なことも含めてである。

この受験生の成績はあまりいいとはいえなかった。
背伸びしてようやく合格した高校だったので
高校生活も劣等生ではあったが
東大合格を含む受験校だった。
勉強してももともと頭が悪いので
二浪してやっと2校に合格したそのひとつがA校だった。
2校に合格したのに大学には行けなかった。
母親は合格したもうひとつのB校へ行くなら
学費を出すが
わが輩が行きたかったA校へは行かせてはくれなかった。
この両校の違いは大きかった。

A校は文系で社会学だった。
B校は工学部だった。
浪人を重ねるうちに社会的な構造に
関心が移り将来の仕事も
そういう分野でやりたいと思ったので
合格したときにはA校しか考えられなかった。
しかし親は納得しなかった。

ほどなくとりあえず
就職もしたが黙って家を出た。
家出というやつだ。
職は二転三転したが東京の専門学校を受け
入学した。

入学金は叔母にお願いし借りることができたが
その後の学費はバイトに頼るしかなかった。
夕方から深夜2時までのタクシー専門の
燃料ガス充填のスタンドのバイトだった。

睡眠は五時間くらいで学校に行くことになるので
それが続きカラダには辛く
しばしば欠席しやがてギブアップ。
夜間に転籍もしたが
やはり学費は捻出できなかった。
それに疲れが溜まると
背中のある部位が耐えられない痛みに
襲われたことが辛かった。

これは上京前のバイトでも
仕事がきついときにもしばしば発症していた。
思えば早朝3時出勤の魚市場のバイトも辛く
しばしば背中の激痛に悩まされていた。

東京でのタクシーのガス充填のバイトから
1年余りタクシーの運転手に転職もした。
やがて専門学校でほとんど勉強もしてないのに
学友からその専門分野でのある仕事を任された。
そのころ結婚もし子供も生まれ。
その学友にはいまでも感謝している。
その娘も40歳になる。

いまから思えば辛い仕事の連続だった様な印象で
それがいまの透析の結果なのかもと思うことがある。
そして大学に行けずバイトと体の痛みの連続で
ひとりで生きてきたことが
人との関わりに臆病な性格になってしまったような気もする。
もともとが幼少からの親の教育が
偏狭だったことから来てるとも思うのだが
大学生活があれば人と関わることで
いろいろ学ぶだろうし是正できたとも時々妄想するのだ。

仕事等で出会った人は数多いるとしても
唯一専門学校のときにグループを作って交流してきたが
40年経ったいまもそれだけが嬉しい友だ。

長々と述懐的に書いてしまったけど
おつきあいありがとうございました。

その究極的な完成度には届いていないかもしれないが
曲がりなりにもその専門分野で
どうにか歩いてくることができたと自負している。

たとえ1日おきの透析という結果になってしまってはいるが。。

ただ母親は孫やひ孫を溺愛しているが
わが輩の仕事には無視しかないことが残念である。

なんのお陰かわからないが
背中の激痛は透析を始めて12年目ではあるがない。
それは心地よい。
透析導入する遙か昔から
どこか内蔵に疾患があったのも知れない。
1度だけ5年くらいまえに胆石症で発症はしたが
いつも疲れるとなっていた激痛は何だったのだろうかと思うと同時に
激痛に襲われない日々に感謝もする。
その1度だけの胆石症も透析での新しいホルモン投与の際におこって
その投与をやめてもらっているのでそれ以降いままでないのである。




2015-04-11

逍遙青梅街道のスタート

おとといから今朝にかけて
食事調整をきちんとしたら
体重増加が3.8キロと
模範的な数値になった。
この調子でも中二日となると
5キロ近く
あるいはそれ以上になってしまう。
まあビールや焼酎をやめれば
可能かも知れない。
ま無理だろう。

1週間くらい前から
考えていた平地リハビリをはじめた。
といってもまだその日1日だけで
いっこうに進んでいない。

思った撮影機材をそろえてでかけたら
左の骨折した足がやはり重くなり
それをカバーしていると思うのが
右足でその負担がほとんど右の腰にきた。
その腰の痛みが
きょうあたりまで継続している。
その日部屋に帰って
バッグや機材の重量を量ってみると7.5キロあった。

山歩きをしてちょっと筋力を使いすぎたというときも
1週間はおおげさだが
数日痛むが
それを過ぎると新たな筋力がついた感覚があり
実際に筋力はついていると確信する。
ひとつイベントをすると
数日痛むのはやむを得ないとして
回復を念じるしかない。

その平地リハビリの一端は
ブログめざせ『百日回峰』を。
そのカラー版を一部ここで。

そうこうしているうちに
来週末に花見山行の知らせが届いた。
あきらかにわが輩の快気祝いをも兼ねて
可能であれば実際に歩くこともできるが
ケーブルカーを使っても良い設定で
これもリーダーのわが輩への配慮で
いたく感謝するばかり。

それに応えるというわけではないけれど
むしろ山歩きではなく
「山頂料理人」らしく!?
料理だけにかけようかと今は思っていて
そのメニュー算段に今週は
力を入れることになりそう。







写真上=新宿御苑
写真中=新宿御苑界隈
写真下=元大木戸 田安稲荷神社