そのフォロアーのプロフィールをみると
同郷でしかもわが輩が受験して合格したけれど
行かせてもらえなかった大学出身だった。
それで40年以上昔の20歳を
いろいろ思い出してしまった。
というか
日頃から意識無意識の中にそのことはある。
ただ過去のこととしての思いではなく
いまの生活が少し異なることになっていたかもしれない
という思いなのである。
それは性格的なことも含めてである。
この受験生の成績はあまりいいとはいえなかった。
背伸びしてようやく合格した高校だったので
高校生活も劣等生ではあったが
東大合格を含む受験校だった。
勉強してももともと頭が悪いので
二浪してやっと2校に合格したそのひとつがA校だった。
2校に合格したのに大学には行けなかった。
母親は合格したもうひとつのB校へ行くなら
学費を出すが
わが輩が行きたかったA校へは行かせてはくれなかった。
この両校の違いは大きかった。
A校は文系で社会学だった。
B校は工学部だった。
浪人を重ねるうちに社会的な構造に
関心が移り将来の仕事も
そういう分野でやりたいと思ったので
合格したときにはA校しか考えられなかった。
しかし親は納得しなかった。
ほどなくとりあえず
就職もしたが黙って家を出た。
家出というやつだ。
職は二転三転したが東京の専門学校を受け
入学した。
入学金は叔母にお願いし借りることができたが
その後の学費はバイトに頼るしかなかった。
夕方から深夜2時までのタクシー専門の
燃料ガス充填のスタンドのバイトだった。
睡眠は五時間くらいで学校に行くことになるので
それが続きカラダには辛く
しばしば欠席しやがてギブアップ。
夜間に転籍もしたが
やはり学費は捻出できなかった。
それに疲れが溜まると
背中のある部位が耐えられない痛みに
襲われたことが辛かった。
これは上京前のバイトでも
仕事がきついときにもしばしば発症していた。
思えば早朝3時出勤の魚市場のバイトも辛く
しばしば背中の激痛に悩まされていた。
東京でのタクシーのガス充填のバイトから
1年余りタクシーの運転手に転職もした。
やがて専門学校でほとんど勉強もしてないのに
学友からその専門分野でのある仕事を任された。
そのころ結婚もし子供も生まれ。
その学友にはいまでも感謝している。
その娘も40歳になる。
いまから思えば辛い仕事の連続だった様な印象で
それがいまの透析の結果なのかもと思うことがある。
そして大学に行けずバイトと体の痛みの連続で
ひとりで生きてきたことが
人との関わりに臆病な性格になってしまったような気もする。
もともとが幼少からの親の教育が
偏狭だったことから来てるとも思うのだが
大学生活があれば人と関わることで
いろいろ学ぶだろうし是正できたとも時々妄想するのだ。
仕事等で出会った人は数多いるとしても
唯一専門学校のときにグループを作って交流してきたが
40年経ったいまもそれだけが嬉しい友だ。
長々と述懐的に書いてしまったけど
おつきあいありがとうございました。
その究極的な完成度には届いていないかもしれないが
曲がりなりにもその専門分野で
どうにか歩いてくることができたと自負している。
たとえ1日おきの透析という結果になってしまってはいるが。。
ただ母親は孫やひ孫を溺愛しているが
わが輩の仕事には無視しかないことが残念である。
なんのお陰かわからないが
背中の激痛は透析を始めて12年目ではあるがない。
それは心地よい。
透析導入する遙か昔から
どこか内蔵に疾患があったのも知れない。
1度だけ5年くらいまえに胆石症で発症はしたが
いつも疲れるとなっていた激痛は何だったのだろうかと思うと同時に
激痛に襲われない日々に感謝もする。
その1度だけの胆石症も透析での新しいホルモン投与の際におこって
その投与をやめてもらっているのでそれ以降いままでないのである。