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2016-09-14

あらためて「脚の筋肉は、第二の心臓」 を考える




このイラストは動画ではないが
引用しているブログの心臓の右脚ブロックの動画はイメージを喚起する。
http://www.cardiac.jp/view.php?lang=ja&target=rbbb.xml

















心臓の動画を見ながら考えると
いろいろなイメージが浮かぶ。

この小さな筋肉のかたまりに
問題が山積し集中していると言うことだ。

1.たしか数年前のCT撮影では

「心房中隔欠損症」の診断もあった。

2.そこに今回の

「大動脈弁狭窄」の診断。

3.「右脚ブロック」


そんな欠陥だらけの心臓なのに
生きていられるものだとも思う。
ある意味心臓が圧力をかけても
スカスカに抜けてるようなものだ。

■1.
全身から返ってきた血液は
「右心房」が拡張して吸われる。
■2.
「右心室」は収縮して
「右心房」からの血液を
肺に送り出す。
■3.
肺で酸素を取り込んだ血液は
左心房に返ってくる。
■4.
「左心室」から全身に血液は送り出される。


この「左心房」にせっかく肺から浄化された血液が返ってくるのに
隣の「右心房」との間が筒抜けで
全身から戻ってくる酸素が少ない血液と混合してしまう。

まして「大動脈弁狭窄」で
「左心室」から押し出そうとすると
出口を絞られて
出ようにもでられないというわけだ。

さてなぜ
手術手術というのか。

右脚ブロックを解放するのは
心臓の収縮をさせて
血液を「肺」に
そして「全身」に送らなければならないからだ。

「大動脈弁狭窄」に
人工弁に代替えして
送りやすくしなければならないから
ということになっている。

このブログでも何度も

「脚の筋肉は、第二の心臓」

と謳ってきた。

それは日常的にも
脚の筋肉の収縮で
脚という末端の毛細血管から
心臓の「右心房」に血液を返す力を発揮するはずだからだ。

もちろん脚の筋肉だけではないかもしれないが
脚の筋肉がもっとも体積は大きいのではないか?

心臓が悪いと
心臓から血液が送れないから
負担になると考えるが
じっさいは逆なのではないか。

先日
低山の高尾山陵を登った。

「ぶらり」が予想外の長丁場 南高尾山稜 

どの山もそして「誰もが」そうであるように
登りの最初の30分が苦しい。
それは末端まで血流が追いついていないからだ。
そして
「誰もが」と書いたが
ここでこだわれば
「心房中隔欠損症」であり「大動脈弁狭窄」であるわが輩は
30分が40分かも知れないし
無理すれば息が続かない。

だが全身を血液が廻るようになれば
歩けば歩くほど楽なのだ。
それは言い過ぎを許してもらえば

「脚の筋肉が心臓」なのだ。

簡単に言えば

心臓は血液を循環すればいいのだ。

誰もがその30分を40分を過ぎると
心臓だけの力だけでなく
筋肉も総動員して
血流をつくる。

それが120回低山ではあるが
登ってきた実感であり
それが快感でもあるのだ。

「心房中隔欠損症」であろうが
「大動脈弁狭窄」であろうが
日常生活に困ることはない。

多少息切れはするが
それは逆説的ではあるが
歩かないと息切れは止まないのだ。


心臓のイラストを見ながらそんなことを考えた。

脚の筋肉にそれだけ頼っていいものかな。。