今般の福生病院で透析離脱を選んだ患者が亡くなったことが話題になってる。
すでにこのところ20人亡くなってると報道されている。
手続き論で患者本人・家族に確認してるから
「死」を選んだ場合
病院は透析を中止してきたというわけだ。
少なくとも報道されている亡くなった患者は
40代と若い。
それを「透析は終末期医療」として
その自殺行為を安易に認めてきたようだ。
透析は辛い。
生活そのものの形態を変えなくてはならない。
その上
厳しい水分制限=体重調整・カリウムや
リンの摂取制限=食事制限が必須で
透析導入時などは右往左往するのみで
何度もこんな生活は止めたいと思ってきた。
それはいまでも
ここで思いっきり酒を呑みたい
ここで食べたいということは頻繁にある。
それができないのは辛いことだけど
たとえば
今日は飲んでもあした控えようとか
コントロールすれば
言い換えれば
「騙し騙し」生きるしかない。
そうすれば40年も50年も生きている人がいる。
以前
親しい技士から
以前クリニックでやはり透析離脱をして
亡くなっていった人の話をしてくれた。
もちろん
こちらが離脱からどのくらいで亡くなるのか
聞き出したかったから話をしたわけで
その技士が死を話題にしたわけではない。
スタッフは死を意識した離脱をとめ
何度も継続を説得したそうだ。
生きる意志というのは
計りがたい。
同じように死ぬ意志も計りがたい。
ましてや
辛い透析生活を強いられてる我々は
いつだって脱出したい。
その選択に「死」もあるといえばある。
だが
意志というのは脆いもので
簡単に翻ることもあるのだ。
実際
福生病院の患者は
苦しい余り
「透析継続」を望んだという。
又その後
病院側の主張では
本人が「それでも透析離脱」の意志だったというが
透析離脱の意志がゆらいでいる中で
それをくみ取り
とりあえず透析継続すべきだったのではないか。
自殺したいのを認めるのでなく
まわりがどれだけ支えることができるか
医療で言えば「心療内科」が何できるのか
ということだろう。
おそらく
手続き論で是か非が決まるだろうが
手続き論ではなく
「生きる意志」の組み立てだろう。
それは患者本人一人で出来ることはありえなく
周りの支えが重要なのだろう。
そう考えると
わが生活の周りには
もちろん細々とした食事制限や体重制限を
必ずしも実際に近いほどわかってくれる人はわずかだが
むしろそんな核心的なことではなく
友人や家族・スタッフが生きることを
支えてくれていることを感じる。