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2016-11-17

心臓とののっぴきならぬ関係

快晴の予報は外れたが昨日は
500m足らずの低山を登った。

シャント手術後の
2週間のブランクはやはり辛い。
心肺力を必要とする登りは
当然休み休みの足運びとなる。

やはり次回の倶楽部山行は
この心臓では
とても参加できる余裕もないかもしれない
とつぶやきながら登ることになる。

かたや
透析の主治医も
「山登りはいいのかな〜」という。
循環器の診療部長の誤診のまえには
「こんな状況で山登りする人
聞いたことない」
と全面否定して
それを受けた透析センターの看護師も
しきりに山登りを止める。
循環器科の誤診が明らかになっても
それが変わらない。

大動脈弁置換手術の当面の手術は必要なしとしても
特段心臓機能がよくなったわけではない。
心房細動もあれば貧血だし
左心室の駆出率もボーだーラインに近いのも事実。

誤診だったという弁も実際には
透析主治医からは
「手術の必要なし」としか聞いておらず
「誤診」の言葉も聞いてはいない。
もし直接循環器の診断を受ければ
心臓の機能が低いことを説明され
山は止めるようにといわれるのは
明かだろう。

ふつうの人は山を登りながら展望を楽しみ
草木の佇みを愛でるのが中心だろうが
我が輩はいつも山を登りながらまずは
自分の心臓と向き合ってきたし
そういう循環器の医師の診断もあったので
ますます抜き差しならぬことになっている。

しかし
そんなふうに向き合っていくことは
必要なことではあるけれど
それで山歩きを中断するのでなく
むしろ心臓を適度に負担をかけながら
可能であれば治癒できればと思っているし
でなくとも
カラダがこのていたらくな心臓能力に
適応することを想定している。

きのう辛い登りで息を上げながら考えたことは
ふつうの人が息をあげずとも登れるのを
我が輩はフルマラソンを走っているかのように
息継ぎをしているのかもしれない
と思ったのだ。
それでいいのだろう
と思うのだ。
心臓や肺にかかる負荷は
ひとそれぞれ。
負荷がかかり継続できなければ
カラダは自然と休み止まる。
負荷は心臓や肺を鍛える。
それが求めるところの
自然治癒のスタート地点と信じているのだ。

「無理をしなければ」
心不全になることもない。
この「無理をしなければ」が
心臓とののっぴきならぬ関係だ。