■11月30日(日)14:45 「転倒」
大塚山を鉄五郎新道で遅い紅葉を愛でながら登ったあと
頂上ではワンタンでエビと大葉を包み茹でゴマだれで楽しんだ。
そこまではよかったが
いつも登り慣れた丹三郎ルートを降りる段で
なぜかルートは工事中で閉鎖され
新しい迂回ルートを余儀なくされた。
このルートまだ踏み固められてなく
黒々とした土で柔らかかった。
あちこちに根も張っていた。
少し大きな段差をこれは注意しなくてはと
気持ち引き締めたにもかかわらず
横向きで足を降ろした瞬間見えなかった根に滑り
方向をV字に転換するところで
その頂点に太い幹の樹がそそり立っていてそれ抱える形。
カラダとその樹の幹の間に足が入り込んで
むこうずねを打って同時にグキッと鈍い音がした。
それでも足を引き出し
骨折してるとわからず激痛に耐えていたが
倶楽部の若いメンバーの肩を借りようと
動かすとクキクキとひびき立ち上がろうにも激痛が走り
どうにもできなかった。
■11月30日(日)15:00 「119番連絡」
倶楽部のメンバのひとりが119番してくれ
50分近くして登ってきてくれた警察に
そえぎとテーピングをされ
遅れて駆けつけた山岳救助隊に担架に乗せられた。
そのまま下るものと思っていたが
隊長の判断で日没まで時間がなかったが
ヘリコプターでの搬送を命令した。
ヘリでつり上げられることのできる
わずかに木々のあいだから空が見えるすきまのあるところまで
担架はロープと人力で引き上げられヘリの来るのを待った。
■11月30日(日)16:30 「ヘリコプターでの搬送」
やがてヘリの音が近づくと
わが輩はローターの激しい風圧から守るためのアルミシートが被せられ
位置を知らせる信号弾が上げられた。
ヘリは位置確認できたが数本の樹が邪魔とヘリから連絡が入ったようで
いったんヘリは離れ
地上の山岳救助隊の手で倒された。
5分後にもどったヘリからロープが下ろされ
わが輩はベルト状のカゴにすっぽり入り
ひとりの隊員にハーネスが取り付けられ
ヘリに吊り上げられた。
おそらくまさに日没の時間で
猶予のない時間で救助隊の命令のもとに
一切が行われていた。
わが輩は足を動かさないようにじっとして吊り上げられたが
360度パノラマの夕暮れの周りの山々が印象的だった。
ヘリ機内に収容されると10分も経たないうちに
着陸したこともわからないうちに近くの基地に着陸した。
救急車に移し替えられ受け入れの病院を救急隊員は探してくれた。
■11月30日(日)17:00 「災害医療センター搬送」
結局その基地から数分の病院へ搬送され
救急センターのベッドに寝かされた。
すぐレントゲン撮影が行われ
ちょっとイケメンなN医師が
その画像を見ながら入院ですと宣言した。
そして治療方針を話した。
こちらは激痛を耐えるのが精一杯だったが
そのぱっかり折れている骨を見て観念して
治療方針だけはしっかり聞いた。
二本折れていたがその一本はそのまま自然治癒
もう一本は金属で固定しする手術を説明された。
まずは骨折してズレてる部分がさらに
筋肉の収縮力でズレが大きくなるのを防ぎ
同時に痛みを軽減するため
踵の骨に穴を開けワイヤーを通して
筋肉の収縮する方向に逆らって
ウエイトで引っ張るものだった。
今思い返してもぞっとするものだったが
左右から麻酔の注射を打って
ドリルのような音がして
軽く二度ほど失敗しながらも
それほどの痛みを感じることなく
完了したようだった。
こういう事態になると家族を呼ぶように言われ
長女に来てもらう電話をした。
この先の手術はすぐにはできず
手術室の予約も翌日以降になり病棟に運ばれた。
消灯時間は過ぎていなかったと思うが
暗い業務用のエレベーターや廊下の天井を見ながら
病棟に運ばれ翌日を待った。
来てくれた長女は手術の説明を受けたようで
遅い時間に帰っていった。
とにかく引っ張れば痛くないはずの足が痛く
一睡もできなかった。
ひっぱてるせいもあるからか
骨折部分も痛いが背骨がいちばん痛い。
しかもワイヤーが通ってる踵も痛い。
ぜったい引っ張る角度が悪いと
看護師に調整をお願いしたが
先生の指示通りだからと
なかなか伝わらない。
それを翌日の回診でほかの医師に訴えたところ
これでは痛いと調整を指示した。
ちなみにこの牽引方法「キルシュナー牽引」というのだそうだ。
■12月1日(月)
手術日が3日と決まったようで
中二日この牽引状態で寝た形で待つしかなかった。
連日のように長女が来てくれ
身の回りのことをしてくれた。
それだけでなくこういう事故があったら難しくなるから
早めにメール送付したものの届いてないと
取引先会社からメールがはいっていて
メール指示し使ったことのないわが輩のMacを動かしてもらって
無事送ってもらえた。
■12月2日(火)
とうぜんこの手術まえにいつもの透析をしなくてはならない。
手術前日に病院内の透析室で透析を受けた。
無輸血手術を頑なに望んでいたわが輩だが
輸血承諾書がないと手術できない
ここの手術室に入れないと言い渡されていたが
この透析室のキャリアがありそうな技師と話すことが出来
手術では輸血に関しては麻酔医が大きな判断をすることを
教えてもらい
その日麻酔の承諾書を説明に来たときに
「無輸血」を極力願ってることを伝えたところ
実際にはどうかわからないが
手術前の朝のカンファレンスで話しますと
快諾してくれ
わが輩も最終的な覚悟ができた。
覚悟が出来ると手術そのものには
あまり不安はなかった。
まったくないとはいえないが
たとえばインプラントを大小あるとはいえ
カラダに埋め込むので
金属アレルギーや抗原抗体反応または感染症になる可能性がないとはいえない。
それらもろもろ
それにこだわれば転院も余儀なくされ
可能な病院を探すことにも時間はかかる。
長女には中学受験をめざす孫がいて
近い日には模試もあり
これ以上長女を振りまわすこともできないと
最初に看てくれたダンディ医師Nに身を預けることにしたし
預けうる信頼もあるような感覚のようなものがあって
最終的な手術説明を長女同席で医師Nから聞き
改めて無輸血をお願いもし承諾書にサインした。
3日に全身麻酔の手術がはじまり
香りのあるエアを吸うと同時に気を失い
呼び起こされたのが二時間半くらいのちだったろうか。
輸血せずにすみましたよ
と朦朧としたなか麻酔医に真っ先にいわれたような記憶がある。
術後のレントゲン画像を見せられたけど
あまりよくは見る余裕はなかった。
病棟に運ばれたが麻酔が効いてるので
足もあまり痛くもないし感覚もない。
ここから一晩翌朝まで血栓が飛びやすいと説明されていたように
その防止のため手術した骨折の左足の反対の右足に
エアマッサージの機器が取り付けられ
枕もなしで水も飲めない食事もできない。
そのかわりに生理食塩水の点滴が続けられ
血圧、心臓の脈波を観察する。
夜の九時ころになると麻酔が解けてきたのか
手術の切り口がチクチクと今までと違う痛みが責める。
耐えられず看護師に訴えると
消灯時間を過ぎた暗い病室の中で
まだ手術着で下はT字帯というふんどしをめくられ
二個の鎮痛の座薬をケツに押し込められた。
あまり効き目はなかったがやや和らいだが
すぐに耐えられなくなり
四時間後くらいにもう一度座薬二錠を入れることになったが
その後数時間寝ることができ翌朝を迎えられた。
痛いには痛いが耐えられないほどではなくなり
エアーマッサージも生理食塩水も取り外され
観察機器もなくなり
食事も水も許され枕も渡された。
ほっとする間もなくこの日は透析で
心配された貧血もHbヘモグロビン8はあったので
透析はあまり心配してなかったが
やはり睡眠不足もあったのか
終盤最高血圧80くらいまで下降した。
ほとんど意識がなくなる寸前ではあった。
それでも足を上げたり透析を中止し
それ以上のことは起こらず病棟に帰った。