『充電』の隣のベッドの女性は
足腰が弱いのか弱視なのか
正確な理由はわからないが
通院はご主人が手を引いてする。
どこかに書いたことがあるが
去年まで1日おきの『充電』の通院を車を使っていて
ある交差点で時々見かけた親子がある。
以前は女性一人だった。
小さな交差点なので
歩道も狭い。
彼女は民家の塀をさぐりながら
次にクリーニング店のガラスウインドウを手で確認し
交差点に入いるという手順が常だった。
こんな門外漢に言われたくないだろうが
あまり要領がいいとは言えなかったので
ハラハラしながら信号待ちをして
最近失明したのだろうかなどと
失礼なことを考えていた。
それから1年くらい経ったときに
母となって背中に乳児を背負って
信号のある交差点を横切る光景を見た。
子どもを授かったのだ。
全盲ならば一人でも交差点を渡るのは
難儀きわまりない。
腎臓はともかく
我々のような目に関しては
大きな障害がないものには全く想像がつかない。
それが幼い我が子を背負って
やはり一人の時と同じように
民家の塀の次は
クリーニング店のガラスウインドウに助けられながら
交差点を渡っていた。
どこへ行くかは想像もできないが
家でもどう育児をしているのだろうと
これも想像できない。
背中に乳児を背負い塀を頼りにたどたどしく渡る光景は
ますます子どもへの愛情を
感じさせるものでした。
2年くらい経って
そのことも忘れかけてた頃
同じ交差点でぼんやり信号待ちをしていると
2、3歳くらいの子どもが親を引っ張って横切る姿が目に入った。
はっと数年前の光景が想い起こされた。
あの背中の子はこんなに大きくなって
母親に手を貸しているのだ。
ふつう「母親が子どもの手をひく」ではなく
子どもが母親を導いているのだ。
こんな小さな子が。
われわれに想像できない母と子の深い絆を感じるのみだ。
『充電』のお隣さんの帰る姿は
いつもチャップリンの「モダンタイムズ」のラストシーンのようで
ほのぼのとして嬉しいもの。
今日もふたりは手をつなぎゆっくりと「おつかれさん」。