83歳の退院したばかりの女性がテレビ画面に映った。
退院したのだから何か症状が出て入院した後だ。
でも彼女の顔は死を意識したような残影が残る。
訪れた70歳の友人をまじまじと見る。
80歳でなくとも60歳過ぎると
なにか起こると死を意識する。
だが死を意識したとしても
誰も己の死を知らない。
それでも死を考える。
死は当然最後であるから
自分にとっても相手との間柄にとっても
良い状態でありたいと思う。
家族にしても、友人にしても、知人にしても。
それぞれの長い時間の中には
いろいろなことがあった。
でも「死」の前には淡い思い出なのだと思いたい。
それにしても退院できたのはよかった。
わが輩も脳幹梗塞を発症し『充電』の生活となったが
60歳を過ぎ
たとえば葬儀で流してもらいたいミュージックを選定したりと
「終い支度」をする。
葬儀がどうの財産がどうのというのは
おそらく「終い支度」といっても
そんなことはまったくどうでもいいことだろうと思う。
もっとも残せる財産もなく
葬儀すらできるのかわからないのだから
何をかいわんやではある。
どうでもいいことといいながら
ついでに内容をいうと
お通夜はブルース、ジャズ、ポップ69曲で
葬儀はクラシック130曲で
出棺は松任谷由実と井上陽水。
あ、いわなきゃよかった。。
どうでもいいこと。。
貧乏人にはもっと貴重な「こころの終い支度」がある。
といって
あした自殺するという話はないですよ。
あしたからまた新しい世界を作りながら
いつでも終える準備をしているだけの話しですから。
そういうように考えていると
88歳になろうする頑固な母親もどういうように
こころの終い支度を考えているのだろうかと思う。
高校を卒業して以来40数年
こころを通わすことができなかった親子だった。
あなたは今何を見つめているのだろう。